乾は高校を卒業と同時にテニスを辞めた。
それは潔く、話をされた海堂が困惑してしまうほど。
自分にはプロになるほどの腕はないと、乾は海堂に告げた。
同学年に天才と呼ばれる人間がいたから。
プロになるのは彼らのような選ばれた人間だけなのだと。
だから、乾はテニスをあっさりと辞めてしまった。
海堂は乾が決めたことに困惑し驚きはしたが、そのことについて責めたりはしなかった。
乾がどれ程テニスを愛していたのか一番傍にいた海堂が、わかりすぎるほどわかっていたから。
それを決めたとき、乾の心がどれ程悲鳴を上げたのか、痛みを伴ったのか。
海堂にはそれがわかるから、何も言わなかった。
ただ黙ってそれを受け入れた。
それに合わせて嗜好品として煙草を嗜む様になった。
煙を嫌う海堂の前では吸う事はほとんどないが、車を運転するときには海堂が隣りに乗っていても吸った。
ただし、必ず窓を開けて。
乾が専攻した学科は遺伝子工学。
難しすぎて海堂には理解できる事は何もない。
乾は理数系なら常にトップの成績だった。特進クラスにいたくらいだから。
ほぼ毎日のように研究に明け暮れ一緒に過ごす時間は、高校生活までに比べれば格段に減った。
その事にたいして寂しいと思うもののそれを責めたりは海堂には出来なかった。
一緒にいる時間を乾がどれ程大切にしているのかを知っているから。
海堂も乾と一緒にいる時間を大切にしている。
会話はもともとなかった。それは高校生活までを振り返ってもそうだ。
だけど、沈黙が寂しいともつまらないとも思わない。
言葉はなくてもお互いの心が通じている事がわかるから。
アークロイヤル『ワイルドカード』
煙草が苦手な海堂でもあまり気にならないそれ。
黒いパッケージから出されるそれ。火を灯せばほのかに漂う珈琲の匂い。
それはひどく乾に似合っていて、海堂は乾の存在が時折寂しいものに感じる。
たった一つしか違わない年齢なのに、自分より一歩も二歩も・・・それ以上の前にいる乾のことが時折寂しく感じる。
乾が二十歳になったとき購入したという綺麗な蒼色のセリカ。
『海堂は青が好きだって言ってただろ?』
そう言って乗せられた助手席。
『そこは海堂専用だから』
なんの衒いもなく告げる乾に、海堂のほうが顔を赤くしてしまう。
自分がどれ程大切にされて愛されているのかわかるから。
ただ、ちょっと恥ずかしさが勝っているから可愛くない言葉を吐いてしまう。
『大学生のクセにどこにこんな車を買う金があんだよ』
と。
憎まれ口を叩けば、
『株でちょっともうけちゃってさ。それに、車があったほうが何かと便利だろ』
と優しい笑みを浮かべて応えてくれる。
海堂は乾の事が好きだ。
思いが通じるよりももっと前。
それこそ始めてあった中等部の部活で。
一匹狼風情の海堂を、乾は飽きることなく構い一緒にいた。
共にダブルスを組んだ事もある。
最初はただものめずらしいだけかと思っていたのに。
人が近づく事を良しとしない海堂が、乾が傍にいる事をわずらわしいと思っていない。
乾は決して自分の存在を誇示して海堂に近づかなかった。
空気のように水のようにゆっくりと海堂の中に浸透していった。
お互いがお互いを特別だと思って。その思いを心の中でじっくりじっくりと温めて。
自然と惹かれあった結果。
「先輩、煙草・・・・やめたりしないんスか?」
久しぶりに会った日。
朝から乾の車で都心を離れてのドライブ。
乾はいつものように少し窓を開けて煙草に火をつけた。器用に左手の指に挟んでハンドルを操作する。
その姿がひどく様になっていて、海堂は格好良いと思う。
けれど、煙草は体によくないと思うから。
「ん〜。なんかね、やめられないんだよね」
前を見たまま乾は言って、指に挟んだ煙草を口元へ運ぶ。
自分の知らない乾がそこにいて。
普段となんら変わりないのに、その、運転をしながら煙草を吸う姿がひどく大人の男を連想させる。
もうすでに成人で、だけど。
「研究中は煙草がないとやっていけないんだ。これでも海堂を一緒にいるときは吸わないようにしてるんだけどな」
大学を卒業したらそのまま院に進むという。
研究がとても楽しいといっていた。
大変だけど、海堂と会う時間が短くなって辛いけど、それでも・・・。
いずれはその研究を生かした仕事がしたいと。
乾は言う。
乾なら、そう遠くない未来に実現するだろうと海堂は思ってる。
「体に悪いからって俺が吸うのは反対するうせに。自分はやめないんスか」
「海堂はね、ダメだよ」
「じゃぁ先輩もやめてくださいよ」
「ん〜、ムリかも」
赤信号で止まった時ハンドルに腕を乗せそこに頭をつけて、乾は海堂を見つめる。
手の中にある煙草が緩やかな紫煙を燻らせる。
「ムリってなんだっ」
「ムリはムリ。だって、研究中海堂が傍にいないんだもん」
「はぁ?!」
乾の言葉に、海堂は眉間に皺を寄せる。
その顔が乾的には面白かったのか、煙草を右手に持ち帰ると空いた左手を海堂の頬に伸ばす。
近づく乾の手から匂う煙草の香り。
「お前がいないから」
そういって微笑む乾の顔がとても格好良くて、海堂は直視できずに視線を前方に向ける。
「先輩、青」
端的に言って、海堂は前を指差す。
「はいはい」
乾は体を起こすと運転を再開する。
運転をしながらちらりとルームミラー越しに海堂を見つめる。その横顔は微かに頬を染めて。
「好きだよ、薫」
くすりと笑って。乾はさらりと告げる。
海堂は瞠目して乾に振り向く。
名前で呼ばれたことも、好きだといわれた事も。
どちらも驚く事で。
自分の顔がどんどん赤くなっていくのを感じて、海堂は顔を外に向けてしまう。
「薫がずっと傍にいてくれたら煙草、やめられるかも」
そう悪戯気に呟いて乾は小さく笑う。
さらに真っ赤になった海堂を、乾は愛しく思う。
「好きだよ、薫」
もう一度言って。
乾は赤信号で止まったのを機に煙草を備え付けの灰皿にもみ消す。
腕を伸ばし海堂を自分の方に向かせると体を伸ばして、何事かと自分を見ている彼の唇にそっと触れるだけの接吻をした。 |
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